古関裕而の略年譜
西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
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1909年 | 明治42年 | 0歳 | 福島市大町の老舗呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる |
1916年 | 大正5年 | 7歳 | 福島県師範附属小学校(現福島大学附属小学校)入学。 |
1919年 | 大正8年 | 10歳 | 母に買ってもらった卓上ピアノで作曲を始める。 |
1922年 | 大正11年 | 13歳 | 福島商業学校(現福島県立福島商業高等学校)入学。 この頃「喜多三」廃業。 本格的な作曲・編曲を始める。 セノオ楽譜(妹尾楽譜)を買い集める。※1 |
1923年 | 大正12年 | 14歳 | 「福島ハーモニカ・ソサエティー」に入る。編曲、指揮も担当。 この頃関東大震災をテーマに「大地の反逆」作曲。 |
1924年 | 大正13年 | 15歳 | 福島市大町から福島市新町に転居。 |
1927年 | 昭和2年 | 18歳 | ペンネームを古関裕而(こせきゆうじ)とする。※2 |
1928年 | 昭和3年 | 19歳 | 川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職。 |
1929年 | 昭和4年 | 20歳 | 舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等に入選。 |
1930年 | 昭和5年 | 21歳 | 川俣銀行退職。 内山金子と結婚。 「福商青春歌」作曲。 上京してコロムビア専属作曲家となる。 |
1931年 | 昭和6年 | 22歳 | 早稲田大学応援歌「紺碧の空」作曲。 初めてのレコード「福島行進曲」「福島夜曲(ふくしませれなーで)」発売。 |
1935年 | 昭和10年 | 26歳 | 初の大ヒット作「船頭可愛や」作曲。 |
1936年 | 昭和11年 | 27歳 | 「大阪タイガースの歌」(六甲おろし)作曲。 |
1937年 | 昭和12年 | 28歳 | 「露営の歌」作曲。 放送劇「当世五人男」初のラジオドラマ曲作曲。 菊田一夫と出会う。 |
1938年 | 昭和13年 | 29歳 | 中支従軍で、中国南部に従軍。 |
1940年 | 昭和15年 | 31歳 | 「暁に祈る」作曲。 |
1942年 | 昭和17年 | 33歳 | 南方慰問団派遣員となり、東南アジア方面に従軍。 |
1944年 | 昭和19年 | 35歳 | インパール作戦特別報道班員となり、東南アジア方面に従軍。 |
1945年 | 昭和20年 | 36歳 | 召集令状が届く。 終戦後、NHK連続ラジオドラマ「山から来た男」で菊田一夫とコンビを組む。 |
1947年 | 昭和22年 | 38歳 | NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」作曲。 |
1948年 | 昭和23年 | 39歳 | 全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」作曲。 |
1949年 | 昭和24年 | 40歳 | 「長崎の鐘」作曲。 |
1952年 | 昭和27年 | 43歳 | NHK連続ラジオドラマ「君の名は」主題歌作曲。 |
1953年 | 昭和28年 | 44歳 | NHK放送文化賞受賞。 |
1956年 | 昭和31年 | 47歳 | NHK連続ラジオドラマ「忘却の花びら」を最後とし、長年のNHK連続ラジオドラマから、菊田一夫とともに舞台音楽へと主な活動を移す。 |
1957年 | 昭和32年 | 48歳 | 福島商業高等学校校歌「若きこころ」作曲。 |
1964年 | 昭和39年 | 55歳 | 東京オリンピック「オリンピック・マーチ」作曲。 |
1969年 | 昭和44年 | 60歳 | 紫綬褒章受賞。 |
1672年 | 昭和47年 | 63歳 | 札幌冬季オリンピック「純白の大地」作曲。 |
1973年 | 昭和48年 | 64歳 | 長年コンビを組んだ菊田一夫が逝去。 |
1979年 | 昭和54年 | 70歳 | 福島市名誉市民となる。(最初の名誉市民) 勲三等瑞宝章受賞。 レコード大賞特別賞受賞。 |
1980年 | 昭和55年 | 71歳 | 妻金子死去。 |
1986年 | 昭和61年 | 77歳 | 作曲生活から引退。 |
1987年 | 昭和62年 | 78歳 | 「日曜名作座」を3人で30年間続けた業績に対し、森繁久彌、加藤道子とともに放送文化基金個人部門賞受賞。 |
1988年 | 昭和63年 | 79歳 | 福島市古関裕而記念館開館。 |
1989年 | 平成元年 | 80歳 | 8月18日死去。 |
※上記の略年譜は、福島市古関裕而記念館制作の年譜を元に作成しました。
※1 セノオ楽譜(妹尾楽譜)とは、妹尾幸陽(せのおこうよう)が音楽の普及のために設立したセノオ音楽出版社の出版物のことで、名曲を集め、人気画家の竹下夢二が表紙絵をよく描いていたことで知られています。古関裕而は、セノオ楽譜を買い集めて音楽を楽しんでいました。余りにも買い込んで父親にしかられたという逸話もあります。
※2 ラジオが大好きだった古関裕而は、福島商業学校時代に楽治雄(らじお)というペンネームも使用していました。