古関裕而特集

古関裕而の曲紹介

 古関裕而の作曲した曲の中からいくつかを、エピソードを添えて紹介します。

「竹取物語」 昭和4年(1929年)

 福島商業学校時代に作曲を開始し、古関裕而がイギリスのコンクールに応募して2等を受賞したと言われている舞踊組曲です。コンクール入選の記事は地方紙、全国紙にも掲載されました。しかし、自伝「鐘よ鳴り響け」ではこのコンクールのことに全く記述がなく、「竹取物語」の楽譜も現存しておらず、古関裕而の大きな謎、幻の曲となっています。当時はコピー機などなかったので写譜も手書きするしかなく、数少ない写譜も散逸してしまったのかもしれません。

 「竹取物語」の手がかりとしては、ビクターの機関誌「ビクター」昭和5年(1930年)7月号に楽譜の一部の写真が掲載されています。また、一時期古関裕而が作曲を学んだ菅原明朗が、『一部分だけれども、イギリスで当選した総譜を見ました。基礎テクニックがないから曲としては力がないものですが、何かリズムとか何かの独自の世界があるのです。それが当選した原因じゃないかと思うのです。』という言葉を残しています。(「古関裕而 1929/30 かぐや姫はどこへ行った」より)

 「竹取物語」については、国分義司・ギボンズ京子著の「古関裕而 1929/30 かぐや姫はどこにへ行った」で詳しく研究されています。

「福島行進曲」と「福島夜曲」 昭和6年(1931年)

 コロムビアに入社し、初めてのレコードとして、上京前に作曲していた2曲を、A面「福島行進曲」、B面「福島夜曲(ふくしませれなーで)」として昭和6年(1931年)に発売しました。

 「福島行進曲」の作詞者野村俊夫は、当時福島民友新聞社の記者でしたが、後に古関裕而と同様コロムビアに入社し、古関裕而作曲、野村俊夫作詞で多くの曲を生み出しました。しかも、野村俊夫も福島市大町の出身で、生家は古関裕而のすぐ近所。古関裕而より5歳年上で、子どもの頃にはいっしょに遊んだ仲でした。

 「福島夜曲」の作詞者は画家で詩人の竹久夢二です。1929年に竹久夢二が福島市で展覧会を開いた折、竹久夢二のファンであった古関裕而は、竹久夢二が福島を読んだ歌に感激しました。すぐに作曲して、竹久夢二が宿泊する福島市内の旅館を訪ねて竹久夢二に捧げました。それが、「福島夜曲」です。竹久夢二は突然現れた見ず知らずの青年に嫌な顔せず応対し、また、これをきっかけに、その後も親交が続きました。

 「福島夜曲」は、福島市内の平和通りの「合掌の碑」や、福島駅前の古関裕而モニュメントでも聞くことができます。

 セレナーデを漢字表記する時は「小夜曲」と書くのが一般的ですが、この曲に関しては、古関裕而も竹久夢二も「福島夜曲」と表記しています。

 

古関裕而生誕100年記念モニュメントの写真

古関裕而生誕100年記念モニュメント

 JR福島駅東口にある古関裕而生誕100年記念モニュメント。愛用のハモンドオルガンを演奏する30代後半の古関裕而像。午前8時から午後8時まで、1時間毎に古関裕而の代表的な曲のメロディーが流れます。

 設置場所については下記のリンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年 ゆかりの地 MAP(新ウィンドウで表示)

 演奏曲目や演奏時刻については下記のリンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年記念モニュメント(新ウィンドウで表示)

「紺碧の空」 昭和6年(1931年)

 早稲田大学の応援歌。歌詞を学内で募集し、当時早稲田大学の学生で歌人であった住治男の歌詞が選ばれました。古関裕而は多くのスポーツ関係の作曲をしていますが、その始まりは「紺碧の空」といえます。

 昭和22年(1947年)、慶應義塾大学から要請があり、古関裕而は早稲田大学の了解を得た上で、慶應大学応援歌の「我ぞ覇者」も作曲します。それ以降、早慶戦では、早稲田大学、慶應義塾大学、双方が古関裕而作曲の応援歌で応援するようになりました。

 なお、昭和11年(1936年)の阪神タイガース(当時は大阪タイガース)の応援歌、「大阪タイガースの歌」(通称「六甲おろし」)、昭和38年(1963年)の巨人軍の歌「闘魂こめて」も古関裕而の作曲で、プロ野球の巨人阪神戦も、双方古関裕而作曲による応援歌を歌っています。また、昭和25年(1950年)の中日ドラゴンズの「ドラゴンズの歌」も古関裕而の作曲です。

「福島成蹊中学校高等学校校歌」 昭和14年(1939年)ごろ

 作詞は福島商業学校(現福島県立福島商業高等学校)時代の恩師、坂内萬です。福島商業高等学校の「青春歌」も、同じ坂内萬作詞、古関裕而作曲です。

 当時、福島成蹊女学校(現福島成蹊高等学校)講師と福島商業学校の教員を兼務していた佐藤実(のち福島成蹊女学校5代校長、県会議員、福島市長)より、福島商業学校の坂内萬と古関裕而へ制作を依頼しました。美しい文語調の歌詞と格調高いメロディーの校歌です。現在も歌われている古関裕而作曲の校歌の中では、特に古い校歌といえます。

 坂内萬が作詞した歌詞は1番から5番までありました。現在は、そのうち、オリジナルの3番が現在の1番として、オリジナルの2番が現在も2番として、歌われています。戦中から現代にいたる社会変革の中で、歌詞の採用が何度か見直された結果です。

 終戦後、社会変革のなかで校歌そのものが新しく作り直されることはよくありました。福島成蹊学園では、戦前の校歌を良く残していると言えるでしょう。

 学校法人福島成蹊学園のホームページ(新ウィンドウで表示)で、校歌を聴くことができます。

 古関裕而は全国の多くの学校の校歌を作成しています。故郷福島の学校の校歌も多く、福島県内で約110校、そのうち福島市内だけでも約20校の校歌を作曲しています。比較的新しいところでは、福島市立吾妻中学校の校歌も古関裕而の作曲です。

 

吾妻中学校を訪れた古関裕而の写真

昭和49年(1974年)、校歌を作曲するために吾妻中学校を訪れた
古関裕而(左から3人目)(吾妻中学校所蔵)

「栄冠は君に輝く」 昭和23年(1948年)

 毎年高校野球シーズンになると誰もが耳にする曲です。昭和23年(1948年)、新制高等学校が始まり、全国中等学校野球大会も、全国高等学校野球選手権大会として生まれ変われました。そして、主催者の朝日新聞社は全国から歌詞を募集し、古関裕而に作曲を依頼しました。まだ戦後復興も半ばの荒廃した中、古関裕而は実際に甲子園球場に足を運び、イメージを広げ、作曲しました。

 なお、作詞したのは歌人の加賀大介ですが、加賀大介は妻道子の名前で応募したため、加賀大介の作品であることが知られるまで、長い間、作詞者は道子の名前になっていました。

「別れのワルツ」 昭和24年(1949年)

 日本人なら誰でも聞いたことがある、よく耳にする古関裕而の曲が「別れのワルツ」でしょう。公共施設や商業施設などで、閉館・閉店間際になると流れるメロディーで、多くの人は「蛍の光」だと思っています。スコットランド民謡の「Auld Lang Syne」を原曲として日本語の歌詞を付けた「蛍の光」は四拍子の曲です。しかし、閉館・閉店間際に流れる曲の多くは三拍子。これは「Auld Lang Syne」を原曲にしていますが、古関裕而の編曲、三拍子の「別れのワルツ」です。

 コロムビアからは、ユージン・コスマン編曲としてレコードが発売されてヒットしましたが、ユージン・コスマンとは古関裕而の名前をもじったもので、古関裕而その人です。

「さくらんぼ大将」 昭和26年(1951年)

 昭和26年(1951年)から放送が始まったNHK連続ラジオドラマ「さくらんぼ大将」の主題歌です。

 ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の次の番組の相談を持ちかけられた時、古関裕而がドラマの舞台として提案したのが現在の福島市飯坂町茂庭でした。古関裕而一家は、戦争末期から終戦直後の一時期飯坂町に疎開し、しばしば茂庭にも足を運んでいたのです。

 古関裕而は脚本担当の菊田一夫(きくたかずお)とともに茂庭を視察し、父母を失った茂庭の六郎太が、気のいい大野木医師やガールフレンドのお玉ちゃんと全国を旅し、さまざまな経験を積んで成長し、やがて茂庭に戻ってさくらんぼ農家になるという、「さくらんぼ大将」のドラマができました。

六郎太少年像の写真

摺上川ダム・インフォメーションセンターに立つ
六郎太少年像(笹戸千津子作)

 古関裕而は昭和55年(1980年)に執筆した自伝「鐘よ鳴り響け」の中で、摺上川ダムの計画に触れ、『最近、ダム建設の話もあるという。あの自然の中 の素朴な姿は、いつまでも残しておきたいと、私は願っている。』と語っています。平成17年(2005年)、摺上川ダムが完成し、茂庭の集落のいくつかが ダムの湖底に沈み、193戸が移転しました。現在、摺上川ダムの上に六郎太少年の像が設置されています。

 設置場所については下記リンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年 ゆかりの地 MAP(新ウィンドウで表示)

「PTAのうた」 昭和26年(1951年)ごろ

 春日紅路作詞。日本PTAの歌です。PTAの県大会やブロック大会、あるいは全国大会などに参加すると、大会の全体会で「PTAのうた」を合唱します。もちろん、PTA福島県大会でも、毎年、「PTAのうた」を合唱します。

 リズミカルで明るく、それでいてちょっと凝ったところのある古関裕而らしいメロディーの曲です。

「高原列車は行く」 昭和29年(1954年)

 丘灯至夫作詞。古関裕而の曲の中でも特に有名な曲の一つでしょう。丘灯至夫は福島県小野町出身です。

 丘灯至夫は、福島県の沼尻温泉や中ノ沢温泉の湯治客に人気のあった沼尻軽便鉄道をイメージして作詞したとのことですが、古関裕而の軽やかな曲は、むしろヨーロッパをイメージさせるような曲となりました。(「古関裕而 うた物語」より)

 丘灯至夫はもともと毎日新聞社の新聞記者でした。新聞記者は「押しと顔」、ということで、「おしとかお」を逆に読んでペンネームを丘灯至夫にしたということです。なお、丘灯至夫は子ども向け番組やアニメの主題歌も多く作詞しています。

メロディーボックスの写真 福島市内、国道13号の「平和通り」と「パセオ470」との交差点近くには、ボタンを押すと「福島夜曲」「さくらんぼ大将」「高原列車は行く」を聞けるメロディーボックスが設置されています。

 設置場所については下記リンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年 ゆかりの地 MAP(新ウィンドウで表示)

「オリンピック・マーチ」 昭和39年(1964年)

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックの公式行進曲として作曲されました。この仕事に古関裕而は大変興奮し、そして、苦心して曲ができあがった時、「会心の作だ」と言ったそうです。

 東京オリンピック中何度も演奏された「オリンピック・マーチ」ですが、その後、このマーチは誰が作曲したのかという問い合わせが海外からもあり、古関裕而の名前が世界に知れ渡りました。(「古関裕而 うた物語」より)

 

古関裕而の書斎の写真

福島市古関裕而記念館に再現された古関裕而の書斎

 福島市古関裕而記念館に再現された古関裕而の書斎。楽器はなく、3つの座り机それぞれに五線紙を配置し、席を移動しながら並行して複数の作曲を進めました。

 自伝「鐘よ鳴り響け」では、『私は、本格的に音楽活動を始めてからの五十年、ピアノは勿論、一切の楽器を作曲の場で使ったことはない。いつも五線紙とペンだけである。辞書を引きながら文章を書いていたのでは、小説はできないと思う。それと同じではないか』と述べています。

LINEで送る