古関裕而特集

 福島で生まれてからプロになるまで、プロの作曲家になってから終戦まで、戦後の活躍と、大きく3つに分けて、古関裕而(こせきゆうじ)の足跡を紹介します。


2020年3月30日(月曜日)よりNHK朝ドラエールが始まりました。
エールのモデル古関裕而の情報満載の特集「朝ドラエールのモデル古関裕而」

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朝ドラ「エール」のモデル 古関裕而特集

古関裕而の足跡

福島で生まれてからプロになるまで 明治42年から昭和5年(1909年から1930年)

誕生

古関裕而生誕の地記念碑

福島市大町のレンガ通りにある
「古関裕而生誕の地記念碑」

 古関裕而(本名古関勇治)は、明治42年(1909年)8月11日、福島市有数の老舗呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれました。幼少期から音楽や絵が大好きで、10歳の頃には卓上ピアノを使って作曲を始めました。

 「喜多三」の跡地には「古関裕而生誕の地記念碑」があります。設置場所や詳細は下記のリンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年 ゆかりの地 MAP(新ウィンドウで表示)

福島商業学校で

 家業を継ぐために福島商業学校(現福島県立福島商業高等学校)に入学しましたが、もっぱら、学業よりも音楽に夢中になりました。自伝「鐘よ鳴り響け」の中で、古関裕而自身も『ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好きで、楽譜を買ってきては山田耕筰先生の曲に夢中になったり、また私自身の作曲に熱中していた。』と語っています。

 この福島商業学校時代に、古関裕而は坂内萬(国語・漢文の教師)、丹治嘉市といった理解ある恩師に出会い、また、当時すでに著名な音楽家であった山田耕筰の作曲法などの理論書を愛読し、音楽の愛好グループに参加しています。友人知人の詩や有名な詩歌に自分で作曲したり、ハーモニカ演奏団体の「福島ハーモニカ・ソサエティー」に入会したりしました。レコード鑑賞会の「火の鳥の会」では、ドビュッシーやストラヴィンスキー、ムソルグスキーなどの音楽と出会い、ロシアやフランスの近代音楽に夢中になります。特に、リムスキー・コルサコフに大きな影響を受けました。

 ビクターの機関誌「ビクター」昭和5年(1930年)7月号の「名曲者自伝」という記事で、古関裕而は以下のように書いています。(文中の旧字体旧仮名遣いは新字体現代仮名遣いにしました)
『商業一年生の終りの頃からハーモニカ合奏曲の編曲を始めて、和声学と対位法の練習を行った。(中略)音楽理論と和声学の本は山田耕作氏の「音楽理論」(講義録)「近世和声学講話」が一番役立った。今はシェーンベルヒの「和声学」で勉強しております。(中略)最初にオーケストラを作曲初めたのは商業学校三年頃で(以下略)』

 福島商業学校時代が音楽家としての基礎になっていました。

作曲コンクール応募、そして上京

川俣銀行時代の古関裕而の写真

川俣銀行時代の古関裕而

 福島商業学校を卒業後、しばらく音楽の勉強に専念した後、川俣銀行に就職しました。川俣銀行でも、時間があれば作曲に明け暮れる日々でした。

 やがて自作曲、舞踊組曲「竹取物語」をイギリスの作曲コンクールに応募して評価を得た古関裕而は、本格的に音楽の道を志し、川俣銀行を退職します。そして、作曲コンクール入賞の新聞記事が縁で文通を始めた内山金子と結婚して上京します。

 本名の「勇治」は勇ましい感じがして自分には合わないと思い、同じ発音で気に入った漢字の「裕而」にしたという古関裕而ですが、こと音楽に関することでは、人気画家で詩人であった竹久夢二が宿泊している宿に押しかけて自作曲を竹久夢二に捧げたり、複数の音楽の会に参加したり、山田耕筰に自作曲を送ったり、海外のコンクールに応募したり、驚くほど積極的に活動しています。

 なお、上京直前には、福島商業学校時代の恩師坂内萬の作詞で、福島商業学校の「青春歌」を作曲しました。今も、福島商業高等学校や同窓会で歌い継がれています。

プロの作曲家になってから終戦まで 昭和5年から昭和20年(1930年から1945年)

初レコードの発売

合掌の碑の画像

福島市内、国道13号の平和通りにある
「合掌の碑」

 昭和5年(1930年)、上京した古関裕而は専属作曲家としてコロムビア(現日本コロムビア株式会社)に入社し、プロの作曲家として歩み出しました。

 古関裕而の初レコードは、福島に捧げる曲をと希望し、上京前に作曲していた「福島行進曲」と「福島夜曲(ふくしませれなーで)」でした。昭和6年(1931年)のことです。福島市内でも発売記念のイベントが行われましたが、売れ行きは良くありませんでした。

 平和通りにある「合掌の碑」では、1日5回「福島夜曲」が流れます。設置場所や演奏時間については下記のリンクをご覧ください。

福島市ホームページ:古関裕而生誕100年 ゆかりの地 MAP(新ウィンドウで表示)

ヒット曲誕生

 最初のヒット曲は、昭和9年(1934年)、高橋掬太郎作詞の「利根の舟歌」でした。高橋掬太郎と古関裕而は、いっしょに茨城県南東部の水郷、潮来を取材旅行し、この曲を生み出しました。ヒット曲がないまま給与をもらっていた古関裕而は、これでようやく胸をなで下ろし、より一層作曲に力を入れるようになります。そして翌年には、同じ高橋掬太郎作詞の「船頭可愛や」がさらなる大ヒットとなりました。

戦中の作曲

古関裕而の写真

昭和19年(1944年)
サイゴンでの音楽会で指揮する古関裕而

 一方で、時代は日中戦争から太平洋戦争へというこの時期、古関裕而は戦時歌謡曲(時局歌)も多く作曲しました。「露営の歌」(1937年)などは特に有名です。日露戦争の戦地を実際に見聞し、当時の兵士に思いをはせて生まれたのが「露営の歌」です。

 戦時歌謡曲は軍歌と混同されがちですが、軍の依頼で軍の組織のために作曲される軍歌とは異なり、戦時歌謡曲は、民間から生まれる歌謡曲です。古関裕而の戦時歌謡曲は、故郷への思い、家族への思い、出征の決意などを思い起こさせるものが多く、人々の心に染み渡り、歌われました。一方で、軍から依頼された作曲では不本意なこともあったようです。また、戦争中、中国南部や東南アジア方面に、命の危険を感じながら従軍したこともありました。

 中国南部の陸軍病院を慰問中に「露営の歌」の作曲者として挨拶を求められたとき、古関裕而は、『酷暑の炎下に座って聞いている多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた。』と自伝「鐘よ鳴り響け」で語っています。

 戦争末期の昭和20年(1945年)には、古関家も空襲を避けて福島市新町の実家に、さらに飯坂町横町に、疎開しました。

戦後の活躍 昭和20年から平成元年(1945年から1989年)

NHKラジオドラマ

ハモンドオルガンの写真

古関裕而がNHKラジオドラマで使用した
ハモンドオルガン(福島市古関裕而記念館所蔵)

 戦後の古関裕而は、ラジオドラマ、舞台音楽、スポーツ音楽に活躍します。

 終戦間もない昭和20年(1945年)10月、古関裕而と劇作家で作詞家の菊田一夫にNHKからラジオドラマの依頼がありました。脚本や歌詞は菊田一夫、音楽は古関裕而。古関裕而と菊田一夫は、これ以降、長年にわたってコンビを組みます。

 ラジオドラマは昭和21年(1946年)1月から放送が始まり、「山から来た男」、「鐘の鳴る丘」、「さくらんぼ大将」、「君の名は」…と、次々とヒット作を生み出しました。

40代の古関裕而の写真

多忙を極めた40代の古関裕而

 これらのラジオドラマでは、テーマ曲の作曲はもちろんですが、挿入曲も古関裕而の担当でした。現在のような録音機材がなかった当時は、すべて生放送で、即興で曲を演奏することも少なくありませんでした。このとき、大活躍したのがハモンドオルガンです。ラジオドラマで実際に古関裕而が使用したハモンドオルガンは、NHKから福島市に寄贈され、現在、福島市古関裕而記念館に展示されています。

舞台音楽

 昭和30年(1955年)、菊田一夫が東宝の演劇部門の重役として東宝に移籍すると、古関裕而も約10年間続けたラジオドラマを後にし、菊田一夫とともに、東宝劇場や芸術座を中心に舞台音楽を手がけるようになります。菊田一夫が死去する昭和48年(1973年)まで、約18年間続きました。

 18年間の間には、演奏中に劇場の火災に巻き込まれるような惨事や、古関裕而自身が胃潰瘍で倒れるハプニングもありましたが、もともと舞踊組曲やオペラに関心があった古関裕而は、この舞台音楽を手がけた日々と菊田一夫の逝去を、自伝「鐘よ鳴り響け」の中で次のように語っています。
『全く忙しい毎日ではあったが、実に楽しく愉快な日々の連続であった。ただ夢中で過ぎていったこれらの日々に終止符が打たれようとは、想像だにしなかった。』

スポーツ音楽、行進曲、ご当地ソング

 ラジオドラマや舞台音楽に多忙な一方で、応援歌、行進曲など、戦後の古関裕而はスポーツ音楽も数多く作曲しました。特に、昭和23年(1948年)の全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」は、夏の甲子園大会の歌として、今でも毎年高校野球シーズンには欠かせない曲です。昭和39年(1964年)の東京オリンピックの公式行進曲となった「オリンピック・マーチ」は会心の作でした。同じコロムビア専属作曲家で同世代の服部良一は、「行進曲やスポーツ歌は古関さんにかなわない」と言葉を残しました。

 また、古関裕而は多くの校歌、ご当地ソング、社歌なども作曲しています。福島市内では20校の校歌を作曲していますし、わらじ音頭、福島小唄、東邦銀行の旧社歌なども古関裕而の作曲です。

故郷への思い

福島市名誉市民になった頃の古関裕而の写真

福島市名誉市民になった頃の古関裕而

 古関裕而は生涯を通じて故郷の福島を愛しました。福島の人を大切にするので、妻の金子は「何でも福島なのね」と焼き餅を焼いたほどだと言います。また、NHK放送文化賞、紫綬褒章、文化基金個人部門賞などを受賞した古関裕而ですが、長男の古関正裕氏は、福島市の名誉市民となったことが一番嬉しかったのではないかと言っています。(「古関裕而物語」古関家座談会より)

 昭和23年(1948年)、当時福島市霞町にあった福島商工高等学校(現福島県立福島商業高等学校、この頃福島商業高等学校は工業科を設置して福島商工高等学校という名称でした)が火災に見舞われたときも、「コロムビア音楽会」や、NHKの人気番組「二重の扉」の関係者に呼びかけ、大変な苦労をして、福島商工高等学校再建のためのチャリティーコンサートを開きました。

晩年

 妻を、家族を、故郷の福島を愛し、長年にわたって人に寄り添った作曲を続けた古関裕而ですが、健康上の理由から昭和61年(1986年)に作曲生活から引退、そして平成元年(1989年)8月18日、帰らぬ人となりました。

 生涯、好きな音楽に邁進した人生でした。昭和55年(1980年)に執筆した自伝「鐘よ鳴り響け」で、以下のように語っています。
『私は音楽をもって大上段に構えたことはない。使命感などと、そんな大それたものを振りかざしたこともない。好きだからこの道をまっすぐ歩いてきたのである。長いともまた短いとも思えるこの一筋の道、その間には確かにいろいろあった。私はとうとうこの道を「好き」で貫いてしまった。』

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