戦中の福島市
昭和13年(1938年)に国家総動員法が制定されると、国民生活のさまざまな分野が統制下に置かれました。多くの食料や生活必需品が配給制や点数切符制となり、また、兵器の原料として鍋、寺の鐘などの多くの金属器が供出させられました。市内にあった工場は軍需工場に転用され、福島県立福島中学校(現福島県立福島高等学校)、福島県立福島高等女学校(現福島県立橘高等学校)をはじめとする学生たちも、軍需工場で働きました。青年、壮年の男性は徴兵されて戦地に赴きました。戦争末期には学徒出陣も始まり、福島経済専門学校(現福島大学)の学生も兵士として出征しています。
昭和20年(1945年)7月20日には、米軍の爆撃機B29が渡利の水田に爆弾を投下しました。これは長崎に投下された原子爆弾の模擬原子爆弾と考えられています。水田で草取りをしていた少年が亡くなりました。
徴兵による出征
出征兵士はたすきをかけ、家族や町内会などに見送られて出征しました。異議を唱えることができない社会的な雰囲気がありました。
戦死者の村葬
戦死者の多くは合同葬儀となり、村葬が行われました。この頃は、会葬者がそろって墓地まで死者を送る「野辺送り」という習慣がありました。
女性の防空消火訓練
男性の多くが出征したことにより、女性たちが防空消火訓練や本土決戦に備えた竹やりや木銃の訓練を行いました。
建物疎開で強制的に作られた空地
昭和20年(1945年)7月4日、福島県は防空法による県告示第216号を発令し、これによって、福島市内でも強制建物疎開が始まりました。
建物疎開とは、火災の延焼を防ぐため、防火地域として空地を作ることです。本土空襲が激化する中、福島市でも、複数の地域で建物疎開が始まったのです。7月中には建物の取り壊しを完了して8月中には空地を整理するという厳しいものでしたが、防火地域ができて間もなく終戦を迎えました。